チャレンジ精神旺盛で知られる深谷隆司。新しいジャンルへ臆せず飛び込み、努力し、極める。その過程でさまざまな経験を得て、さらに大きな自分を目指す。
そんな深谷隆司のやんちゃ人生を年表形式で紹介します。
幼少期  
父 深谷政雄・母 千代子の長男として東京・浅草に生まれる。
母 千代子と「満州電業」で働く父 政雄のいるハルピンに行く。
終戦後満州ハルピンから引き揚げる。
DDTを頭からかけられ、丸坊主に。田中小学校に住居を構え、同小学校編入。
学生時代  
早稲田大学法学部入学。雄弁会に入会
新橋駅頭で街頭演説を行っていた頃、当時誰が1番人の足を止めるか競っていた。
全日本雄弁連盟結成、自民党「学生部」初代副幹事長
青年時代  
台東区議会議員当選
27歳独身の深谷は選挙資金も後援会組織もなかったが、雄弁会で鍛えた演説を街角や演説会で全力投球し無名の新人ながら見事当選し、政治家としての第一歩を踏み出した。
東京都議会議員に当選
自民党時代は野党。深谷は弁舌鋭く革新都政の矛盾を指摘し、やがて「美濃部キラー」の異名を取った。
第33回総選挙で衆議院議員初当選
深谷は選挙前になり自民党の都合で公認を得られなかったが、逆風のなか無所属で国会議員に挑戦し、持ち前のバイタリティーと後援会の強烈な応援で当選。
若手時代  


第35回総選挙トップ当選で返り咲く
3回目の当選・労働政務次官
昭和天皇崩御
自民党総務・衆議院外務委員会筆頭理事・自民党副幹事長
 
大臣時代  
6回目の当選・郵政大臣で初入閣
郵政大臣になりすぐに「愛と思いやりの郵政行政」というキャッチフレーズをつくる。
目の不自由な人のためのはがき・郵便配達時に高齢者の方々へ励ましの声をかける「愛の一声運動」・利子の一部を海外援助に使う「国際ボランティア貯金」等々さまざまなアイディアを実現させる。
阪神淡路大震災のあと自治大臣になった深谷は、「消防防災一兆円構想」で全国の防災拠点の整備を行い、また緊急消防援助隊を創設し、いざというときは全国の消防機関が協力して消火活動・人命救助活動を行うようにした。
国家公安委員長としては銃器の根絶につとめ、また警察官の増員を実現して国民の安全を守り、治安の維持に尽力した。
自民党総務会長に就任
政権与党自由民主党の意志決定最高機関、自民党より国会に提出される法案はもちろん、党運営にかかわることもすべて総務会に図られる。総務会長は30人いる総務会のメンバーのまとめ役。

通産大臣として三度目の入閣
ライフワークであった、中小企業問題の解決に向け、中小企業基本法を36年ぶりに抜本的に改正し、時代に合った政策、予算、税制を打ちたてた。
また、中小企業への金融の貸し渋りに対して、30兆円の「無担保融資・貸し渋り対策」を実現し、中小企業者の4人に1人が活用した。
森喜朗内閣で通産大臣に再任
二科展入選「ある女優」
現在  
2004年 4月
  東洋大学大学院経済学研究科 客員教授就任
※2006年4月より
同大学院経済学研究科公民連携専攻
シニアアドバイザー就任
  5月
  深谷政経塾開塾(塾長)
  7月
  北京経済技術開発区 名誉顧問就任
  7月
  華中科学技術大学 顧問教授就任
2005年 9月
 衆議院議員 13万票近い大量得票で5年ぶりに当選、
 復活を果たす(9回)
  10月
 院議をもって、衆議院議員在職二十五年の表彰を受ける
  11月
 衆議院国家基本政策委員長就任
  11月
 大連海事大学名誉教授就任
2006年 7月
 TOKYO自民党政経塾初代塾長就任
衆議院議員在職二十五年の表彰を受ける 衆議院議員在職二十五年の表彰を受ける
    在職二十五年の記念に、
国会に肖像画が飾られる
(作者:八代亜紀さん)
2007年 9月
衆議院国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動 並びにイラク人道復興支援活動等に関する特別委員会 委員長 就任
2009年 9月
自民党東京都連最高顧問、 TOKYO自民党政経塾塾長として、未来を担うリーダーの育成に務める。

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